〈食と美と健康〉ヤブキタ茶の誕生
お茶のすすめ
お茶は、食後の一服、仕事の合間に、また、接客にといつ飲んでも私たちの心を和ませてくれます。日本だけでなく、世界各地で愛飲されています。お茶には緑茶、紅茶、ウーロン茶をはじめ色々な種類があり、最近では美容と健康、あるいはその薬効を期待した各種のお茶が市販されています。
もともと茶樹は中国の雲南地方に自生した植物ですが、アジアの「照葉樹林帯」と呼ばれる地域を経て、世界中に広まったものと考えられています。それぞれの国や地域で品種改良が行われ、日本で現在最も生産されているヤブキタ茶もその一つです。私が勤めていた静岡県立大学の脇の道路にヤブキタ茶の原木(天然記念物)があります。このことは、静岡県が茶所であることと、臨済宗の開祖であり茶祖ともいわれている栄西禅師とも関係が深い。
栄西から聖一国師へ
お茶は、永忠という僧が唐から帰国する際に持ち帰ったといわれています(805年)。当時の嵯峨天皇の勧めもあり、お茶がまず貴族の間で流行し、また京都御所の中に茶園も造られた。しかし、まだ庶民の間には広まらず、その後一般化させたのは、宋へ留学していた僧の栄西であった(1191年)。彼の著書「喫茶養生記」には、次のように書きだされている。
「茶は養生の仙薬なり。延命の妙術なり。山野これを生ずれば、この地神霊なり。人倫これを採れば、その人長命なり。・・・古今奇特の仙薬なり」。
このように当初お茶は「薬としての飲み物」であったのが、次第に「日常の飲み物」として愛飲されるようになっていった。それでは、なぜお茶がこんなにも一般に受け入れられたのであろうか。その大きな理由の一つは仏教の普及であった。もともとお茶が僧侶と関係が深かったのは、修行の妨げである眠気を覚ますためであると言われている。静岡県には、栄西禅師の立像が各所にあり、また安倍川上流でつくられている本山茶(ほんやま茶)は、聖一国師(静岡茶の始祖)と呼ばれた僧弁円がもたらしたといわれている。
ヤブキタ茶
大正初期の茶輸出全盛期のころ、近代製茶工業・銀行・鉄道事業などに大きな功績を残した大谷嘉兵衛と静岡県立大学ともつながりがある。先にヤブキタ茶のことを記したが、彼は有度村谷田の土地を杉山彦三郎に提供して、茶の品種改良を行い、その中からヤブキタ茶が生まれたのである。大学の芝生公園は、いわば大谷嘉兵衛の所有地であったところであり、またキャンパスもそこにある。
〈2020年5月 / 茶柱コラムより :旧竹沢製茶HPに掲載分〉
静岡県立大学名誉教授
農学博士 横越英彦 著
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